ayaさん、thank you very much! ありがとうございます❣
This is the Japanese translation of The Myths of Candy Candy Final Story (Part 3). For your interest, please read my introduction in Another translation of ayaさん!
何よりもまず、コメントやメッセージで忍耐強く支援し励まし続けてくれたAlexに心から感謝します。彼女は私の追加リクエストに応えて世界大恐慌に関してさらに参考資料を提供してくれました。主として、私にこの第二次世界大戦に先立つ混乱期に関する様々な議論のテーマについて深い知識が不足していたため、この新しい投稿まで長い時間がかかってしまいました。Alexが表明した通り、ほんの2、3の参考資料を引き合いに出して、「世界大恐慌のように社会経済史および社会政治史上大いに議論の余地がある時代」についてしっかりした論理的で信頼できる分析を維持することは不可能です。このような論争の的となる歴史的時代の標準的な分析を普通にリストアップすると30~50ページ(A4 サイズ、Times New Romanのフォントサイズ11~12)を超えます」 そうは言っても、私のブログは学術的な公開討論の場ではありませんので、バランスも保とうと思います。ですから、ご自身でもう少し調査してみたい方は、ほとんどの参考資料がこの投稿の最後の方にありますのでそちらをご覧ください(世界大恐慌に関するものはAlexの基準からするとひどく短いものですが)。
話を続ける前に、私がCandy Candy Final Story の嘘と真実 (Part 2) にいくつか参考資料を加えたことをお知らせしたいと思います。ロイヤルシェークスピア劇団が1961年3月20日まで正式に設立されていなかったと指摘して、実質的に爆弾を落としたAlexが提供してくれたものです。それ以前は、ストラットフォード公演シーズンは見るには値するがありきたりと一般に見なされていました。1950年代になってやっとクエールとバイアム・ショーがピーター・ホールを含む一流演出家を何とか招致することができました。バイアム・ショーは1959年にピーター・ホールをシェークスピア記念劇場の後継者として選びました。ピーター・ホールがシェークスピア記念劇場を引き継いだ時はひどい状態で、劇団は本当の劇団ではありませんでした。
この前の投稿で考察したエイボン川の話に戻ると、キャンディとあのひとは下記のどれかの近くに住んでいるかもしれません。
1. エイボン川(デボン)
2. エイボン川(ウォリックシャー/ストラッドフォード・アポン・エイボン)
3. エイボン川(ブリストル)
4. エイボン川(ハンプシャー)
これらはみな妥当な近さ(イングランド南部/南西部の田舎)ですが、世界大恐慌と戦間期の1930年代半ばを取り巻く歴史的、社会政治的状況を考慮すると、Alexは実際にはウォリックシャー/ストラッドフォード・アポン・エイボンのエイボン川であると提言しています。皮肉なことに、彼女が言うように、テリィよりもアルバートのほうがシェークスピア記念劇場を訪れる可能性が高かっただろうと思われます。というのはウォリックシャーのシェークスピア記念劇場は主として学術講演、学術会議、富裕層の豪華なパーティー、その他各種のローカルイベント用のレセプションホールとして機能していたからです。
けれども、もしあのひとが本当にアルバートなら、彼はなぜアメリカの本部/故郷を去ってイギリス、とりわけイングランド南部の田舎に引っ越したのでしょうか? 彼は財産/社会的地位を失ったのでしょうか? もしくは何人かの人達が主張したように、株式市場の暴落があってやっとキャンディと結婚できたのでしょうか?
どうぞ下記の情報(ほとんどがAlexが提供した物です)を読んだ後、ご自身でご判断下さい。正直言って、これらのほとんどの参考資料/情報源を消化して全容を理解するのにかなり時間がかかりました。ご理解の上、辛抱強くお待ちいただいて本当にありがとうございます。またもちろん、このシリーズの以前のトピックへのフィードバックにはいくら感謝しても、感謝し足りないくらいです。私がこれから紹介することに納得していただけることを願っています。先に述べたように、あまりに細かいことには立ち入らないようにします。この投稿をさらに良くするために、何かご提案がありましたら遠慮なくお知らせください。よろしくお願いします!
1920年の戦後不況からの急速な回復の後に、アメリカ人は10年にわたって消費ブームを享受しました(「狂騒の20年代」)。同時にアメリカは世界有数の輸出国そして世界第二の輸入国(イギリスに次ぐ)として、国際貿易を通じて世界のその他の国々とつながりがありました。それだけでなく、アメリカはイギリスに取って代って世界有数の国際的な資金の貸し手となっていました。結果として、その他の国での継続的な繁栄は、アメリカ経済がいかに輸入を吸収し高レベルな国際的融資を維持できるかのキャパシティに左右されました。
しかし1929年、ウォール街大暴落がアメリカを経済不況に突入させました。金融機関(銀行、株式市場を含む)、(重)工業や工場に極端に投資していたアメリカ人は最もひどい打撃を受けました。言い換えれば、一番高くまで上昇していた国家(例えばアメリカ)が、皮肉なことに一番の暴落に苦しんだのです。これに対処するためアメリカは他国への債権を回収し、外国製品の輸入を停止し、これが世界のその他の国々で不況を引き起こしました。
アメリカでの大恐慌の影響は、すぐにイギリスを激しく壊滅的な津波のように襲いました。北アイルランド、スコットランド(グラスゴー)、ウェールズ(カーディフとスウォンジー)及びイングランド北部の重工業(例えば石炭、製鉄、鉄鋼、造船)が最も大きな痛手を負いました。その理由の一つはそれらが戦後近代化されず、そのせいで他国との競争の影響を受け、すでに苦境に陥っていたということです。例えば、イングランド北東部ジャローにある炭鉱、製鋼所、造船所が閉鎖された時、町の一人残らず全員が解雇され、ジャローは実質的に‘死に’ました。イギリスのこれらの都市の海運業が世界大恐慌で激しい痛手を受けた別の理由は、アメリカとの強く、そして相互依存的な結びつきでした。イギリスの失業者数は1933年には250万人(労働人口の25パーセント)に上昇しました。
それでもなお、他国に比べると世界大恐慌でイギリスが経験したことは比較的穏やかなものでした。主としてイギリスが1920年代に本物の信用ブームを経験していなかったからです。イギリスがアメリカほど財政的、技術的(工業を含む)に進んでいなかったことは言うまでもありません。第一次世界大戦以来、イギリスは低成長の長期的景気低迷にあり、イギリスにある銀行は負債を返済できず、深刻な財政的、経済的困難にありました。そのため、イギリスの人々(および投資家)はイギリスでこれから起ころうとしていることについて、すでに備えができていました。南アメリカも同じような状況でした。相互依存的な金融上のつながりが少なかったため、南アメリカの国々には世界大恐慌の影響が及びませんでした。要するに、アメリカとのつながりが一番少ない諸国(ソ連のように)が世界大恐慌によってこうむった痛手は、全くないとまではいかなくても最小限でした。
アメリカ経済が悪化すると、多くの人々が大金を失い、上流社会の一員の中には贅沢なライフスタイルを抑制せざるを得なくなった者もいましたが、誰もが全てを失ったわけではありませんでした。実際には、多くの同国人が家族を養う余裕すらなかった時に、アメリカの王朝的な一族の多数は豪華なパーティーや派手な祝宴をし続けていました。それでもなお、「アメリカの多くの裕福な有力者は莫大な財産を失いました。特に銀行業(株を含む)に関わっていた者、重工業や工場に関わっていた者です。これには他の国々に、特にラテンアメリカとイギリスに富を分散し、投資を拡大していた巧妙で抜け目のない企業家は含まれません」 Alexは述べています。
Alexはさらに指摘しています。イギリスのいくつかの地域でひどい打撃があったものの、南イングランド、とりわけ地方の田舎は「イングランドの南東、特に南西の田舎で利益を維持拡大するためにアメリカの財政上の混乱から‘避難した’多くの富裕な北アメリカ人の投資と移住により」繁栄しました。「ロンドンでの状況はしかし少しまちまちでした。非常に貧しい人々が市中心部に住んだのに対して、富裕層はロンドンの郊外や近郊に居住しました」
実際のところ、1930年代はイギリス史上の他のどの10年よりも大きな経済成長を遂げました。いくつかの産業が衰退したにもかかわらず、この時代は化学、電気製品、航空、自動車などの新産業にとって黄金時代でした。この時代にモーリス、ハンバー、オースチンがその名を知られるようになりました。建設業も空前の好景気となりました。これらの新しい産業、とりわけ車両(自動車とオートバイ)および電気製品産業(家電、事務用電気製品など)はミッドランズと南イングランドで繁栄し、ここの失業率は比較的低いものでした。職のある人々は実際、恐慌から恩恵を受けることができました。なぜでしょうか? 物価が下がり、より多くの物を買えるようになったからです! 結果としてイングランド南部の人々は比較的裕福になりました。1930年代に300万軒の新しい家が建築され、電気のある世帯は1200パーセント増となりました。新たな自宅所有者に加えて、自動車所有の莫大な増加もありました。
CCFSの話に戻ると、アルバートは(キャンディの手紙で彼が切れ者の実業家と見られているという描写)ハイレベルなビジネス感覚をもった抜け目のない企業家で投資家でした。エピローグで彼はキャンディにロンドン(あるいはイギリスの他の地域)での事業開設について語っていますね? 彼女がセントポール学院で学んでいる間に、新規事業の立ち上げを無事に達成したと彼は言っていました。これは彼に投資の進捗状況だけでなく、キャンディの教育の進み具合も監督する機会をもたらしました。
とはいえAlexは、アルバートのアメリカの銀行や産業との結びつきからして、彼の富は世界大恐慌の間に確実かつ不可避的に大打撃を受けたと確信しています。彼のビジネス感覚(先見の明)、アメリカ国外への富の分散とさらなる投資のおかげで、彼の資産家の同輩に比べればそれが壊滅的でなかったとしても。裕福な人々は祖国での重い課税を回避するために他の国で投資する傾向があり、アルバートが同じことをしていた可能性があります。「‘世界人’というアルバートの気質が、なぜ彼が致命的とならない傷を少し負っただけで(マンガでのライオンに襲われた傷と似ています)世界大恐慌を何とか生き延びることができた何よりのそして中核となる理由であることが分かるかもしれません」 おそらく彼がレイクウッドの不動産(キャンディとアルバート双方に大切な思い出のある場所)を売ったのは、世界大恐慌時代に彼が居住していた場所であるイギリスでの富と投資を一層拡大するためでしょう。
さらにアルバートのイギリスとブラジルでの初期の投資も、彼が実際的なだけでなく先見の明もある実業家であることを証明しています。集中した単独投資ではなく、富の分散(分配)が合理的な投資、利益、財産の損害対策マネージメントの核心となります。アルバートは従って「実用主義で実際的なだけでなく、才覚があり革新的で、非常に聡明な人物です」 Alexはこう述べています。「論理と知識にもとづく推測をしなくても、これらの明確な特徴を考慮すれば、1930年代にアルバートがエイボン川に近い南イングランドの地方部で成長著しい自動車産業や電気製品産業に関わっていたと考えてよいでしょう…。アルバートの自動車産業と工業技術での現在の職業は彼にぴったりでしょう。法学と経営学の高等教育がこの‘完璧’で’理想的’な職業的役割に文句なしにプラスになります」 Alexはこうとまで言っています。イギリスで高等教育を受けたアルバートは近隣の名門大学(バース、ブリストル、ケンブリッジやオックスフォード)で客員講師や法律顧問だったかもしれないと。
この前の投稿で私はキャンディの現在の住居に関する描写にもとづくと、彼女とあのひとは経済的に安定していると言及したことを覚えていますか? あのひとが車で帰宅しただけでなく、彼らはエイボン川近くの田舎の景色の良いところで、電気が供給されている家に住んでいました。これらすべてがこのカップルが経済的に不自由のない、質の高い生活を送っていることを示唆しています。彼らはお金持ちとは限りませんが、貧乏とは程遠いと思います。
Alexの結論:「アルバートが‘ポーカーフェイス’(キャンディが手紙の中で彼をそう呼んだように)なのは私生活だけでなく社会生活と職業生活でも同様です。アルバートはあらゆる面でサバイバーであり、困難は人を鍛えるのです」
この投稿を終える前に思い出していただきたいことがあります。Candy Candy Final Story の嘘と真実 (Part 1) ですでにAlexは1930年代半ばの歴史上の出来事を考慮に入れたとしたら、名木田(水木)氏があのひとの正体に関してそれほど曖昧にはしていないと言っています。歴史と世界大恐慌の出来事がテリィに不利な判定を下し、一方これがアルバート(または気風と力量の観点からアルバート同等の人物)がキャンディのパートナーだとするには有利に働きました。いかがでしょうか?
これでシリーズが完結したわけではありません。まだありますので、次回もお楽しみに。
(参考資料については、オリジナル英語版のリンクをご参照ください)