Candy Candy Final Story の嘘と真実 (2)
ayaさん、thank you very much! ありがとうございます❣
This is the Japanese translation of The Myths of Candy Candy Final Story (Part 2). For your interest, please read my introduction in Another translation of ayaさん!
スコットランド、そして戦間期(1932年から1937年)及び世界大恐慌(1929年から1939年)の厳しい時代について、さらなる参考資料を提供してくれたAlexに感謝します。
キャンディが30代半ばとすると(1934-1935くらい)、テリィとアーチーは30代後半になります。もしアンソニーが生きていたとしたら、彼も30代後半だったはずです。アルバートはもっと年上ですから、40代半ばになっているはずです。
私たちがスコットランドのハイランドにあるエイボン川を除外したのは、貧困だけが理由ではありません。ここでCCFS上巻からの抜粋を読んでみましょう。キャンディが現在の自宅でエイボン川、ラッパ水仙、そして彼女のバラについて語っています。主要語句に短い訳をつけてハイライト表示しています。
1. 春浅い午後の光を浴びてearly Spring, Riven Avon is basked in the afternoon light
2. ゆるやかに流れていく the river runs slowly / the current is slow (gentle)
3. 庭の木々の間が黄金の光を放っているように水仙が満開になっているからだ plenty of daffodils are in full bloom among the trees in the garden that it appears as if the flowers are glowing with golden light
4. ささやかなばら園 humble rose garden / rose bed
5. ばらのつぼみがふくらんでいる rose buds are swelling
6. ばらの手入れだけは、わたしは庭師に任せない only the roses I would not leave them to the gardener for maintenance / care
ラッパ水仙は日なたで最もよく開花します。キャンディの記述にもとづくと、この日が明るく晴れた日であることが分かります。バラのつぼみがふくらんでいることと満開の水仙を合わせると、しばらく前からすでに暖かく心地よい気候になっていることを暗に示しています。“春浅い“ということに留意してください。スコットランドの3月の典型的な天候の統計によると、3月のスコットランドはまだ肌寒いはずです。それに加えて、雨や風、日照不足は庭造りを困難にします。
でも誤解しないでください。ハイランドのエイボン川は控えめに言ったとしても本当に素晴らしいのです。最近知ったことですが、釣り(サケ、マスなど)の人気スポットです。バリンダロッホで釣りのウェブサイトからはバリンダロッホ・エステートでスコットランド・ハイランド地方の2つの大きな川が合流する事が分かります。モナリア山脈を源とするスペイ川はスコットランドで二番目に長く、また明らかに最も流れの速い川です。エイボン川はスペイ川の最長の支流で、水源はベン・ミュヒ・ドゥイ山頂です。従って、その地方のエイボン川は流れの速い川で(リンクをクリックして写真を見ることができます)、これは現在のキャンディが描写している川と一致しません。
キャンディとあのひとは、アパートや粗末でちっぽけな家ではなく、一戸建ての家に住んでいるようです。彼女の庭に木々がある事(どのくらいの数かは不確かです)だけでなく、彼らは庭(バラ以外)の手入れに誰かを雇っていました。これが多くの人々が失業し、貧しい暮らしをしていた過酷な時代だったことを思い出してください。キャンディが一日中家にいて追想にふけることができたことを考慮に入れると、彼女は基本的に日中は何でも好きなことができたのではないかと思います。もしかしたら仕事を(少なくともフルタイムでは)していないのかもしれません。彼女が夕食の支度について気にしている様子もありません。たぶんあのひとが仕事のあとに料理をするか、誰か彼らのために料理をしてくれる人がいるのでしょう。いずれにせよ、彼女とあのひとが比較的裕福だったと信じるだけの根拠があります。
電気はどうでしょう? CCFSの最後にあのひとが帰宅し、パチンと電気のスイッチを入れ、なぜ灯りをつけていなかったのかと心配してたずねるのは周知の事実です。1943年になってもハイランドの6つの農場のうち5つで、100のうち99の小作地では、公的に供給される電気につながっていなかったと書いてあるのを読みました。ハイランドの人々への電力供給と社会整備のために、スコットランド各地の水力発電開発を国営化したのが1943年の水力発電開発(スコットランド)法です。このようなわけで、あのひとがキャンディがなぜ暗闇の中にいるのかと困惑したことから判断して、家に電力を供給するために発電機に頼っていたのではなく、実際、電気がもっとありふれたものである地域に住んでいたのではないかと思います。結論を言えば、彼らがハイランドに住んでいる可能性はほとんどありません。
では、この前の投稿で中断したところからまた続けます。キャンディとあのひとがエイボン川の近くに住んでいるという事実が、ブロードウェー俳優のテリィにとってなぜ有利にならないのでしょう? 今一度、Alexに心からお礼を言いたいと思います。下記の情報のほとんどが彼女の参考資料と分析をもとにしています。では始めましょう。
世界大恐慌はアメリカとイギリスの双方にそれぞれ違った影響を与えました。1930年代半ばにはイギリスの多くの人々は貧しい暮らしをしており、芸術家や俳優(役者)も同様でした。彼らの多くはロンドンの市中心部の貧民街に暮らして(役者の何人かは仕事のためにオールド・ヴィック・シアターの近くに住む必要があった)いました。ロンドンでは政治劇が有名でしたが、報酬は哀れなものでした。その一方で、同じ時期のアメリカでは‘ニューディール法’(1933-1937頃、フランクリン・D・ルーズベルト政権時代)と連邦美術計画(1935-1943頃)、により、芸術(ビジュアルアートおよびパフォーマンスアート)が繁栄し、大変な幸運を謳歌していました。これらはアメリカの名声が確立した芸術家/俳優/役者とそれを志す者双方に非常な恩恵を与えました。
結果として、よりよい生活とより多くの資金援助を望んだ芸術家/俳優/役者はアメリカへ引っ越していたでしょう。テリィが大きな成功を収めたブロードウェー俳優であり続けていたとしたらどうでしょう。彼のアメリカでの名声と富は拡大し発展し続けていったに違いありません。ですからAlexは言います、「テリィがアメリカで高く評価され、名声が確立した役者だった事実を踏まえると、彼がもしイギリスに行こうと決心したとすると、彼は完全にどうかしていたのでしょう」 彼が何らかの理由でもし本当にイギリスに引っ越そうとしたとして、政治劇活動の拠点であるロンドンの外に住むのはおかしなことです。私たちがPart 1ですでに説明した通り、どのエイボン川の近くでもイギリス南部の田舎は、毎日ロンドンに通勤するには遠すぎます。
こう言って異議を唱える人がいるかもしれません。「でもロイヤルシェークスピア劇団があるでしょう?」 そうです、この劇団の建物はシェークスピアの生地ストラッドフォード・アポン・エイボンにあります。このページから素敵な画像を手に入れました。
多くのテリィファンが、テリィがRSC(ロイヤルシェークスピア劇団)の俳優であると推測しました。しかしAlexが残念ながらお知らせしなければなりません。ロイヤルシェークスピア劇団は1930年代には存在していなかったのです。実はロイヤルシェークスピア劇団は1961年3月20日に王室の勅許を得て設立されたのです。演出家で創設者だったのはピーター・ホール(1930年生まれ2017年死去)です。
1961年以前はストラッドフォード・アポン・エイボンにある建物はシェークスピア記念劇場として知られていました。そしてここでは春のシェークスピア生誕を記念する‘観光用のような’季節限定の公演(年に3~4週だけ、プラス真夏に催し物が一回)しか行われていませんでした。Alexが年間を通じてのすべての公演と催し物のリストが記録されたデータベースへのリンクを提供しています。例えば1930年と1961年の間のものをチェックできます。催し物がほとんどないことがすぐ分かります。そしてそれらが4月と5月の3~4週間しか開催されていなかったことが。折に触れて7月か8月に催し物が一回あったかもしれません。それだけです。
加えて1926年にはシェークスピア記念劇場は大火に見舞われ、1932年まで閉鎖されていました。1928年にシェークスピア記念劇場を再建するための建築コンペティションにエリザベス・スコットが優勝しました。この建物は公共の会場として1932年に再オープンしました。残念ながら彼女の近代的なデザインは演劇界のエリートから酷評されました。エリザベス・スコットの建築の試みを支援したのはジョージ・バーナード・ショーだけでした。そして当然のことながら、ここは1959/1961年ころまでは演劇公演には最もふさわしくない会場となりました。
Alexによると、ロイヤルシェークスピア劇団以前は、シェークスピア記念劇場は単に裕福な有力者が豪華なパーティーを主催する会場として機能していたと言います。それ以外としては、学会の主催や地域の催し物(芸術や工芸)のための会場としても機能を果たしました。先に述べたシェークスピア生誕を記念する春の3~4週間、俳優たち(ほとんどが若く、どちらかと言えば経験の浅い)はストラッドフォード・アポン・エイボンに巡業で来ていたとAlexは言っています。彼らは主としてロンドン(仕事の関係でオールド・ヴィック近辺)を拠点にしていました。
要するにテリィがまだ現役の俳優だったとしたら、彼が1930年代半ばに南イングランドのエイボン川近くに住んでいる可能性が極めて低いということです。この次の投稿ではアルバートについて続けます。
2 Responses
[…] 最後にAlexは指摘しています。テリィファンの中には名木田氏のエイボン川への言及を初めて発見した時、喜びに飛び跳ねた人達がいました。このヒントがテリィに有利になるとみなして。彼らにとって残念なことは、それには正反対の影響があることです。このエイボン川への言及は、歴史的な理由でも、経済的な理由でも、実はアルバートにプラスになるのです。次回に続きます。 […]
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